表現の正体

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

昨年末、このブログを再開し、
営業日更新を掲げて今日まで経過しました。

毎朝4時から、
こうしてブログを書き、
開店時間となる午前9時に予約投稿し、

9時1分にBufferサービスを使って、
ブログの更新をTwitterで告知しています。

こうした作業の流れは、定着したモノの、
単なる日記ブログではないため、
いつかネタの尽きる日が訪れそうなものですが、

有難いコトに、
その時は、なかなかやって来ません。

毎朝、何を書くのか、
その都度、考えているワケではなく、

1本記事を書く中で、
その日の投稿から連想される別のテーマを
ポイントだけメモするようにしているのですが、

多くは、そのメモの内容が、
そのまま、後日のブログタイトルとなり、

タイトルを通じて湧き出てくる文章を、
当日の朝、僕の言葉にまとめているだけなのです。

…で、

今日、お伝えしたいコトは、
このブログのネタが、尽きるか否かという話しではなく、

こうして、タイトルだけ提供されたときに起こる、
僕と言う人間の、興味深い反応についてです。

おそらく、誰にでも起こっている現象ですが、
最近の僕は、その反応が顕著なので、
今日は、それについて、お伝えしたいと思いました。

早朝、リストに書き溜めておいたタイトルたちを、
しばらく眺めていると、
書きたいモノが、目に飛び込んできます。

すると、次の瞬間、
そのタイトルに沿った、
2通りの文章が湧き出て来るのです。

ひとつの文脈は、そのタイトルに相応しい、
僕の記憶を辿った、それらしい文章であり、

そして、もうひとつは、

僕の顕在意識とは全く無関係の、
一見突拍子も無い内容なのですが、

最終的には、その日のブログの骨子ともなる、
無くてはならないモノに化ける文脈なのです。

言葉では表現し難いのですが、
それはまるで、もうひとつのテーマのようです。

ですから、完成に至る前の僕の文章は、
支離滅裂もイイところで、

そうした中から、この作業を客観視している、
もうひとりの僕の指示によって、

テキストエディタのカット&ペースト機能を駆使し、
最終的な文章へと仕上がって行きます。

こんな表現をすると、
人格障害のように聞こえるかもしれませんね。

ですが、おそらく人間という創造物は、
自分自身と常に対話しており、

自己表現をする必要があるときには、
自分対自分の論議の結論部分だけを
誰かに伝えているだけに過ぎないのではないでしょうか。

論議をしている一人目の自分とは、
もちろん、顕在意識側の自分です。

自分の良く知る、社会的にも知られた、
今世を生きる自分のことです。

そして、もうひとりの自分とは、
物理的な身体に繋がった、永遠の存在である魂です。

その魂の声を五感がキャッチし、

言い換えるなら、
聞いたり、触れたり、味わったりしながら、

そうした、自分自身と向き合った結果が、
自己表現と呼ばれるモノなのでしょう。

このようにして、表現を日々重ねるコトで、
大切な何かに触れる可能性が高くなるワケですから、

自分を表現し続けることは、止めたくないし、
止めるべきではないはずです。

まず、実践せよ…と言う賢者の言葉は、
魂と出会うチャンスを増やせと、
僕たちに教えているに違いありません。

魂は、高次の自己とも呼ばれます。

ということは、
かなり周波数の高い存在のはずです。

つまり、実践という形で、
何等かの自己表現を続けて行けば、

僕たちの波動は、自ずと高まるのです。

海の日

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

平成8年から加わった、
比較的歴史の浅い国民の祝日が、

「海の日」ですね。

沖縄という、
海洋環境に恵まれた土地に住みながら、
僕は海が苦手です。

元々、泳げない人間なのですが、

就職し立ての22歳の夏に、
職場の仲間と出かけた神津島の人口ビーチで、
溺れたことが苦手意識に拍車を掛けました。

どうしてそのとき、海に入っていたのか、
その経緯は忘れましたが、

突然深くなる人口ビーチの構造を
理解していなかった僕は、
自分がこれから溺れるであろうことを察知し、

浜で談笑している仲間に
力の限り手を振って合図を送ったのですが、

浜にいた仲間は、その合図が救難信号とは気付かず、
僕に対して手を振って応えるだけでした。

距離もあったため、声も届かず、
僕はそのまま、
底の無い海へ、沈んで行くしかありませんでした。

そのとき、なぜか、
こうやって、人は溺れて死ぬんだなと、
冷静に考えたことを覚えています。

溺死を覚悟したんでしょうか。

青春ドラマなら、
ここで気を失うんでしょうが、

残念なことに僕は気を失わず、
溺れながらも、もがき苦しんだのです。

そんな僕の様子が、
変だと気付いたG先輩がそこに居なかったら、

僕はきっと、その年初の、
神津島の溺死者となったでしょう。

泳ぎの達者なG先輩は、
偶然ですが、大学の先輩でもありました。

物凄い速さで、
僕のいる場所まで泳いで来たかと思うと、

次の瞬間、僕の身体を水面までひっぱりあげ、
呼吸ができるように僕を海面で仰向けにし、

そのまま、筏(いかだ)のような体勢の僕を、
浜まで引っ張って泳いだのです。

浜に戻って、地面を踏み締めたとき、
生きて還って来られたコトを実感しましたが、

大量の海水で満腹になり、
もがき過ぎて関節までおかしくし、
声の完全に枯れた僕は、

そのまま浜で、死んだように眠りました。

気が付いたのは日没前で、
僕の目覚めを待っていてくれた仲間たちと、
宿泊先まで自転車に乗って帰りました。

綺麗な夕焼けでした。

命の恩人のG先輩は、
いつまでも優しく笑っていました。

泳げない人は、海に入るべきではありません。

十数年経って「海の日」が制定されたとき、
僕は、久しぶりにこの事件を思い出しました。

それから毎年、この日になると、
G先輩を思い出し、生きているコトに感謝しています。

今でも、海に出かけることは大好きですが、
そこで泳ぐことは、絶対にありません。

他にやることが沢山あるので、
泳げるようになりたいとは、
きっと、今世では思わないでしょう。

毎年、この日に感謝を捧げる人生も、
悪くないモノです。

精神医療と製薬業界

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

一昨日、アップされたばかりの
YouTubeの映像をご紹介します。

毒々しいタイトルが好きではありませんが、
コンテンツの内容は支持します。

自らの生活を建て直して自然治癒力を向上させ、
こうした世界と関わらないことが、
もっとも重要です。

そのための具体的な方法は、
こちらを参考にして下さい。

器用、不器用

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

先日、店頭でノートパソコンに向かって、
お客様の治療記録をタイプしていたところ、

それを見ていた高校生に、
こんなコトを言われました。

ゆうすけさんて、
パソコンのキーボードを
器用に使いこなすんですねぇ。

パソコン教室で習ったんですか?

僕は、昭和57年に
産業用ロボットの関連企業に入社し、

その時から、
コンピュータとの付き合いが始まりました。

まだ、パソコン教室なんて、
存在しなかった頃です。

当時の一番の悩みは、
キーボード配列に馴染めなかったコトでした。

もちろん、マウスなんてありませんから、
キーボードが操作できなければ、
何も仕事ができません。

タイプライターの経験のあった友人は、
キーボードのキーの並びに
違和感が無かったようでしたが、

そういう類のコトには、
まったく無頓着だった僕は、

意味不明のキーの並びを覚えるコトが、
苦痛で仕方なかったのです。

さらには、マニュアルは全て英語で、
使われている単語は、技術用語ばかりですから、

学校で習った知識ぐらいでは、
まったく歯が立ちませんでした。

ところが、そんな僕には、
ギターの経験がありました。

右手と左手の指先を規則的に動かす訓練を、
中学生の頃からしていたコトを思い出し、

キーボード配列を覚えようとするのではなく、
感覚的に手指の骨の動きを
身体に叩き込むコトにしたのです。

この発想の転換は大成功でした。

パソコン操作に使う英単語ベースのコマンドは、
せいぜい数十種類です。

ギターの和音やアルペジオのパターン数と、
大差ありません。

ですから、コマンド毎に、
キーボードを演奏しているつもりで、
手の形や指先の流れを、覚えて行ったのです。

この作戦は、大成功を収めました。

ある日突然、キーボード操作が上達した僕に、
先輩たちは驚きました。

まだまだ、余裕はありませんでしたが、
それからというもの、
あれだけ大きかったはずの悩みが、

跡形も無く消えたのです。

その十数年後だったでしょうか、
パソコンやタイプライターのキーボードには、
ホームポジションという手の基本形が存在し、

そこから、必要なキーに向かって
指を伸ばすという訓練方法があるコトを知りましたが、

完全に自己流でキーボードと向き合っていた僕には、
もはや、「釈迦に説法」の世界でした。

確かに、こういった慣れの世界では、
器用とか、不器用という尺度が存在するかもしれません。

ですが、器用という才能が開花するワケではなく、
以前習得した何かが、
違う形に応用できるだけのコトであり、

それは、完全なる必然なのです。

地道に何かに取り組んでいると、
その知識や経験は、
まったく違う世界のモノとも融合を始めます。

そうやって、色々と学んだモノたちは、
習得の快感を知っているため、
さらに何かを得ようと精進を続けます。

ゼロの状態から何かを切り拓くコトは無いという真理を、
経験上知っているからです。

口は災いの元

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

もし、あなたが、
誰かを説得して、何かをしたいのなら、
今日のブログは肝に銘じて下さい。

今、自分が携えている意志や、思惑を、
表現という形で誰かに完全に伝えることは、
基本的に不可能です。

もちろん、伝えようとする本人は、
伝えるつもりでアウトプットしますし、

聞く側も、
聞くつもりでインプットするでしょう。

ところが、伝えようとするモノは主観的であるため、
仮に伝えたい人の言語力が完全な状態であっても、

その対象を100%、文字や言語ベースで
表現することなど、できるはずがありません。

例えばあなたが、宇宙人に出会ったとします。

そして、その姿の詳細を、
鮮明に、目に焼き付けたとしましょう。

興奮状態は間違いを生み易いので、
冷静になってから、その姿を誰かに伝えるとします。

ところが、

あなたの捉えた宇宙人のイメージとは違うモノが、
誰かに伝わってしまいます。

主観を数値化できませんので、
科学的評価は難しいですが、

どんなにうまく伝えることができたとしても、
それは全体の50%程度が限界です。

つまり、言語力の完璧な状態で、
適切な単語を駆使したメッセージであっても、

あなたの持っているモノは、
その半分しか、第三者には伝わりません。

しかも、それは最良の手段を講じた場合の話しです。

ビジュアルな情報を併用して、言葉で説明した場合の、
最良の伝達結果が50%なのです。

それだけ、僕たちは、
情報化できない曖昧な部分を、
主観の中に育んでいるのです。

こうした現実を知る人は少ないため、
多くの人が口だけで、相手を説得しようとします。

しかし、人間が情報を得ようとする場合、
視覚情報が8割を締めます。

つまり、聴覚情報だけによる説明では、
せいぜい2割程度しか、相手に届かないのです。

最善を尽くしても、
主観情報の5割しか第三者には届かないのに対し

それを言葉だけで説明しようモノなら、
その中の、さらに2割しか伝わりません。

つまり、完璧な言語能力を持つ場合でさえ、
あなたの主観全体のたった1割しか、
言葉だけでは相手に伝わらないのです。

昔から、「口は災いの元」と言われます。

実際、口論から大喧嘩に発展するコトは
珍しくありません。

誰も自分のコトを解ってくれない…と、
嘆く人は多いモノです。

でも、この事実を知れば、

自分の抱える主観を
誰かに解ってもらうというコトの大変さが
理解できるはずです。

つまり、誰かに、
自分を理解してもらう必要なんかありません。

あなたの思い描く通りに生きるコトが重要であり、
その結果を、今回の人生で遺せば良いだけなのです。

これは、親の子供に対する、干渉についても言えます。

子供にとって良かれと思って言ったコトでも、
あなたの助言は、子供に届いていません。

子供は首を縦に振ったとしても、
それは、あなたの主観を理解したサインでは無いのです。

自分を信じ、思い通りに生きるコト、
そして、誰も干渉しないコト、

この2つが、コミュニケーションというツールを持つ、
人間に課せられた基本ルールなのです。

プラチナバンド始まる

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

昨年の震災直後、

家族全員の携帯電話を、
auからソフトバンクに切り替えました。

それまで10年近く使い、何の不満も無かったauをやめ、
電波状況の決して良くないソフトバンクにしたのは、

孫正義氏による、
震災復興のための100億円寄付の話しに
感動したからです。

実際に寄付が行われたかどうかは知りませんが、
彼の心意気を買いました。

まさに、衝動買いですね。

iPhone4を購入して、実際に使い始めると、
見事なほど電話が掛かってこなくなりました。

那覇に出たときだけ、まともに機能しますが、
北中城村に帰ると、ほぼ圏外になります。

わが家では、
インターネットの設備に関しては一流なので、

自前で設置したWiFiの効果で、
iPhoneらしい機能は使えるようになりましたが、

肝心の携帯電話としての機能が、
殆ど使えない状態でした。

その後、ホームアンテナを申請して設備しましたが、
他の無線機器との相性が悪いため、
これも撤去せざるを得なくなり、

電話は、固定電話だけが頼りの状態が続いています。

そんな、携帯電話としては、
全く機能しないソフトバンクですが、

今日から待望のプラチナバンド運用が始まります。

但し、既設の基地局では使えないため、
専用設備に交換したり、
新規に建てたりすることになるようですから、

北中城村で恩恵が受けられるのは、
随分先の話しになりそうです。

幸か不幸か、
アンドロイド系スマートフォンと違って、
iPhoneは飽きが来ないので、

文句を言いながら、
待つのが楽しみでもあります。

今は、このプラチナバンドより、
今月初旬から使えるはずだったPayPalHereからの、
運用開始宣言を待ちわびています。

この設備が整い次第、
ひかりあめの店頭でも
クレジットカードが使えるようになりますよ。

遺伝からの解放

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

昨日の雑草の発芽の話題に関連して、
今日は、遺伝についてお話しします。

結論から言うなら、
遺伝は恐れるに足りません。

自分の家系に頻発する特徴的な病気や症状を
遺伝と捕らえて諦める人々を
僕は沢山見てきました。

薄毛や多汗にはじまり、
糖尿病や脳卒中、果てはガンまで、

遺伝だから仕方がないと
罹病した人だけでなく、
医師までが、そんな運命論的な結論を提示します。

確かに遺伝的要素はあるかもしれませんが、
この解釈は大筋から間違っています。

遺伝とは、種でしかないのです。

千年以上前の種が、
遺跡等から出土することは、
珍しくありませんが、

そういった太古の種も、
土の中で滋養と太陽光に恵まれると、
歴史を越えて、しっかり発芽します。

種は、種だけでは何も起こりませんが、
土と滋養と陽光を授かると、
植物として発芽するのです。

遺伝も同じように、家族や家系の中で、
文字通り、伝え遺されますが、

例えば脳卒中を引き起こす遺伝子が継承されても、
その遺伝子を育む環境がなければ、
あなたという身体で発芽することはありません。

つまり、種は遺伝子であり、
土は身体であり、

滋養は食、
そして陽光は生活環境なのです。

いくら種である遺伝子が、
あなたの身体に伝え遺されたとしても、

あなたの食生活と生活環境が
遺伝子の発芽条件に合致しなければ、
病気にも症状にも現れることはありません。

つまり家族や家系は、同じモノを食べ、
同じ場所に住むため、
遺伝子が発芽し易い条件が揃ってしまうだけなのです。

人間にとって相応しい食事を摂り、
人間らしい生活環境を手に入れれば、
いかなる悪性の遺伝子も発芽することはなく、

そればかりか、

その家族や家系に伝わる、
良い面が継承されることになるでしょう。

どうせなら、良い遺伝子を、
発芽させようではありせんか。

僕は、数年前から薄毛が顕著になりましたが、
遺伝的な話しで言うなら、
30代の頃から、禿げていなければなりません。

しかし、多くの友人たちが知っているように、
僕は薄毛とは無縁の生活を送っていました。

フラワーレメディで言うところの、
インパチェンスやウォーターバイオレットタイプの人は、

家族との縁が薄いため、
家系に潜む生活の癖が、体質として現れ難いのです。

そんな僕でしたが、

この数年に渡って、
僕に襲い掛かった多大なストレスたちは、

僕の頭髪を薄くする条件を揃えてしまったようです。

しかり、これらのストレスを克服し、
理想的な食と生活習慣を実践すれば、

きっとまた、若々しい頭髪を手に入れられるはずです。

僕は、この身体を使って、
それを立証したいと思います。

気長に、お付き合い下さい。

生態系を担う

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

耐陰性という言葉をご存知でしょうか。

フラワーレメディとは関係の深い言葉ですが、
利用者やセラピストには、縁の無い単語です。

多くの療法では、施術を受ける側である利用者と、
施術を行う側のセラピストしか存在しませんが、

フラワーレメディにおいては、
もう一レベル存在します。

それは、僕のように製薬まで携わる
フラワーレメディストという立場であり、

彼らはセラピーを行うだけではなく、
レメディ(薬)を作ることも仕事の一部です。

この療法における治療薬は、
太陽法という製薬プロセスがメインになりますが、

そこで、薬作りを左右する大切な要素の一つが、
陽の光なのです。

ですが、

耐陰性とは、
製薬のプロセスとは無関係です。

それは、製薬対象となる
植物の生態のひとつです。

文字通り、
陽の光の届かぬ陰に
耐えられるかどうかということです。

先日完成した、
ひかりあめの運動療法ガーデン(仮称)は、
その後も、毎日のように除草作業が続いています。

敷き詰めたバラス(小石)の下から、
抜根の不完全な雑草たちは、
石の隙間から逞しく発芽します。

それを1本1本抜き取る仕事が、
毎朝の開店準備前の作業に加わったワケですが、

昨日のような定休日でも、
休むことはできません。

雑草たちは、バラスを敷かれたコトで、
地表の温度や湿度が変わり、

同時に地表に陽の光が届かなくなったにも関わらず、
こうして毎日発芽します。

温度や湿度の条件に
発芽を断念する種もありますが、

多くの雑草たちは、耐陰性に優れているため、
こうして新しい芽を出すのです。

植物の中には、
耐陰性の低い種類も沢山あり、
その代表格が芝です。

一見逞しそうな芝ですが、
彼らは日陰では、生きることができません。

芝生に、枯葉が一枚舞い落ちたとしましょう。

落ちた葉が、風に飛ばされることなく、
数日間、同じ場所にあろうものなら、

その下にあった芝は枯れてしまいます。

耐陰性の高い植物は、
陽の光が得られなくても育つコトができますが、

芝のような耐陰性の低い、もしくは無い植物は、
この例のように枯れてしまいます。

ひかりあめの敷地は、平均斜度30度以上の傾斜地で、
そこを切り拓いて建築しましたが、

全敷地の3割以上は傾斜地のままで、
その部分は土の崩落を防ぐため、芝を植えてあります。

そのため、芝の間から生える雑草の除草と、
芝の上に堆積した枯葉を取り除く仕事も、
定期的なメンテナンスとして、必要不可欠になります。

雑草たちは、芝の根本で発芽しますから、
陽の光の届かぬ悪条件の下で、
まず、その成長が始まるワケです。

しかし、彼らは耐陰性が高く、
光が無くても成長できるため、

その状況を放置しておくと、
やがて芝より背が高くなってしまいます。

そして、芝の上空で雑草が葉を広げようモノなら、
彼らの成長の勢いは、
光合成が加わるため、さらに加速しますが、

雑草たちが葉を広げることによって、
その葉の陰となった芝が枯れ始めます。

芝には、耐陰性が無いからです。

こうした流れの中で枯れた芝は、
ついには雑草たちの堆肥となり、
この勢力争いは、雑草たちに軍配が上がるのです。

フラワーレメディの植物の中で、
特に耐陰性の高い種がビーチです。

耐陰性を備えたビーチは、後から森の仲間に加わっても、
陽光を必要としないため、スクスクと林床で成長できます。

そのうち、既存の植物より背が高くなり、
ビーチは森の冠となって幹を広げるのです。

ビーチによって陽の光が届かなくなった、
先駆植物たちは枯れて消え、

やがてその森は、
ビーチだらけになるコトさえあります。

これが、野生の純林(単一植物による森)の仕組みです。

そんなコトを考えながら、
毎朝、運動療法ガーデンのメンテナンスをする僕は、
ビーチのような存在の敵と、言えるでしょう。

つまり僕は、この生態系を託された管理者なのです。

こうして作られる環境によって、
優位になる生物もいれば、追いやられる生物もいます。

どちら命も、自然において平等ですので、

生態系の頂点に在って、その管理を担ったモノは、
単なる維持管理をするだけでなく、

生命への感謝を、日々携えねばなりません。

ただ義務感だけで、雑草を引き抜いたり、
除草剤を撒いて一網打尽にしていては、
雑草たちに恨まれるだけです。

雑草1本ずつに、しっかりと手を掛けて、
心を込めて向き合うコトが、

生態系を担う者に、本来求められるべきでしょう。

少なくとも僕は、
そうであり続けたいと思います。

日々出来るコトに隠されたモノ

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

自分に出来ないコトで
思い悩むヒマとエネルギーがあったら、

自分に出来るコトに焦点を当て、
積極的に、ガンガン動きましょう。

もちろん、動く方向も自分で決め、
その選択と、行動の結果には責任を持ちます。

これを一日中、そして一年中、
誠意をもって続けるのです。

はじめは、小さな結果しか
残らないかもしれませんが、

出来ることのバリエーションは、
その積み重ねによって、自ずと広がって行きます。

例えば、昨日と今日で、
自分に出来るコトをチョイスした結果、

全く同じ課題に取り組んだとします。

しかし、人間の不確実性は、
時としてチャンスを提供してくれます。

ちょっとした着想の違いや、
周囲の環境の違い、

そして、自身の手法の違いが、
微妙に違う結果をもたらすことがあるのです。

これが、能力の広がりであり、
可能性の拡大です。

こうして、出来るコトが少しでも増えれば、
出来ないコトが減るワケであり、

その分、思い悩むきっかけも減ります。

とまあ、これだけでも充分有難いのですが、
どうせ自分と向き合うのなら、
さらに心掛けておくべきコトがあります。

大雑把で良いので、
ある程度目標を決めておくのです。

そうすることで今度は、
潜在意識を味方につけるコトができます。

何かを実行している時、
人間の不確実性のもたらすチャンスの方向が、

目標に向かって、
無意識に軌道修正されるようになるからです。

これこそが、目的意識を持つことの利点です。

逆の言い方をするなら、
目的や目標があっても、

何の行動もしなければ、
そこへ一歩も近付くことはありません。

エドガー・ケイシーのリーディングの中に、
自分に与えられた仕事や環境に対して、
常に最善を尽くせという意味の言葉が

何度も、何度も、登場します。

僕たちは、何か特別な能力が、
ある日突然、
宇宙からもたらされると期待しがちですが、

そんな都合の良い偶然は、存在しません。

だから今日も、
出来るコトに感謝を込めて、
最善を尽くすべきなのです。

多忙と夢中

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

いつも、多忙な方がいます。

そして、何かに、
夢中になっている人がいます。

このふたりは、
どちらも寸暇を惜しんで活動しますが、
彼らには大きな差があります。

「忙」という字は、心を亡くすと書きます。

自らの外側で起こる刺激を感覚的に処理し、
物質的な世界に翻弄され、
我を失った状態が「忙」です。

この日の記事でお話ししたことを
思い出して下さい。

僕たちは、
肉体を携えた精神でなければなりません。

ところが「忙」の状態は、
心を亡くした、精神不在の肉体と変わりありません。

彼らは、ふとした瞬間に我に返ったとき、
ある程度目標を達成していると、
はじめて安堵することができますが、

それ以外の瞬間では、
心ここに在らずの状態で奮闘しています。

そしてついには、
その忙しさを言い訳にし、

心と向き合うコトを、
拒否し始めるコトすらあります。

一方「夢中」とは、精神優位の素晴らしい状態です。

自らの内に湧き起こるモノに対して純粋に向き合い、
意識が、その実現に向けて、
全身全霊で取り組んでいる状態です。

これは、意識を司る霊性が、
主導権を握っている状態ですから、

肉体と精神が、理想的に調和しています。

ですから、多忙の人と違って、
夢中の人は、疲れを知りません。

今を去る、35年前、
僕は高校3年生でした。

担任の先生が職員室に僕を呼び出し、
将来、おまえは何になりたいんだと僕に問いました。

楽譜は読めないけれど、唄うことが好きだから、
歌手になりたいと、僕は先生に言いました。

すると先生は、
大好きなことなら仕事にするなと、
僕に忠告したのです。

その時は、意味が解りませんでしたが、
これこそが、肉体と精神の葛藤に対する答えのひとつです。

大好きなコトには、無我夢中で取り組めます。

しかし、それが仕事になった途端、
つまり、ギャランティが発生したり、
不本意な期限が生じたりすれば、

大好きだったはずのコトが、
自分の首を絞め始めるのです。

この時に陥る状態が、
「夢中」の世界から「忙」の状態への転落です。

特に若い頃は、この違いがはっきりしないため、
体験し、傷付いて、多くを学ぶのでしょう。

社会に出て30年以上経った今、
幾つかの仕事やプロジェクト、
そして何回かの挫折を経験し、

長続きできる仕事とは、
夢中になれるモノかどうかを僕は知っています。

そして、もうひとつ確かなコトは、
それはもはや、好きとか嫌いとか言う、
主観の世界では無いという事実です。

雇用関係の存在しない自営業というスタイルを選び、

安定とは無縁の生き方ではあるモノの、
自分のペースを優先できる、こうした仕事との関わり方は、

夢中の状態を維持するには、どうやら好都合のようです。

これからも、心を亡くさぬよう、
意識の高い日々を過ごしたいモノです。

そして、真の健康とは、
こうしたバランスが、自然に成り立つ状態なのでしょう。